2026-08-18-Tue 五分後の世界
_ [日常]村上龍の
「五分後の世界」を読んだ。とても良かったので、感想文を書いてみる。
自立心もなくのうのうと生きるだけ(と捉えている)日本社会への強烈なアンチテーゼを感じた。 「愛と幻想のファシズム」にも通じる民族主義的とも言える自立心を読み取ったが、これを極右的思想と捉えるのは表面的な見方だろう。何故なら、民族主義も右翼思想も、俯瞰で見れば「個」ではなく「全体」思想だからだ。
手段と目的は得てして逆転する。 個の自立(目的)は右翼でも左翼でもないのに、自立のための闘争が、何時しかファシズム(手段)になる。 その方が楽だからだ。
日本では「個」は希薄だった。戦前は勿論、戦後もだ。
それでもこの作品が作られた頃(1994年刊行)は日本経済も好調で多くの国民が満足していた。故に思考停止が進んだとも言えるが、それから「失われた30年」があり、日本は低迷している。すると自立、即ち考えることに不慣れな日本人は、敵を作りたがる。即ち、「自分が苦しいのは○○のせいだ」である。分断が進み、さらに日本は停滞する。村上龍の危惧がまさに具現化している。
日本人の思考停止の何よりの証左は、選挙での投票率の低さだと思う。日本人は自ら民主主義を勝ち取らなかった。1945年の敗戦を経て強制的に自由と民主主義が与えられたが、それを使いこなせなかった。だが朝鮮戦争などの特需や、目的が有ると猛烈に行動する日本人の特性もあり、驚異的な経済発展を遂げた。これが日本の幸運でもあり、また不運でもあった。
日本人のメンタリティは、基本的には江戸時代の小作人からあまり変わっていないと思える。つまり、お上に粛々と従うことを良しとする社会だ。故に個は育たず、それ故に選挙の投票率も低いままだ。
60年安保も、個の自立ではなかったと思う。あれは一時期のムーブメントだった。故にそれが去った後は「何事も無かったかのように」日常が過ぎて行ったと聞く。後の民主党政権と同じだ。日本人は流れに弱い。そこもまた、「個」が弱いことの証左だと思う。
オダギリは「生き延びる為」に常に決断をした。集団に流されていては死ぬだけだった。そのギリギリの選択、つまり生き残るためにどうするかを考えることが個の確立であり、「五分後の世界」で村上龍が言いたかったことだと思える。
最後の行動(ネタバレ回避)が、自分の道は自分で決めるという、何よりのメッセージだ。
この作品には、日本人は極限状態にならないと決断できないだろう、と言う村上龍のアイロニーを感じる。
オダギリも自分の意志を本当に出したのは、最後の行動だけだった。そこに村上龍の書きたかったことがあるように思えた。
オダギリの最後の決断は「個の確立」だと捉えている。それは極限状態になってやっと個が確立できた、と言うアイロニーではあるが、同時に思考実験でもあるように思える。
アンダーグラウンドの人々が「個」を確立できているかと言うと、必ずしもそうではなく、アンダーグラウンドを理想として書いているわけでもない。個とは何か、それを考えるための作品だと思う。