2020-07-30-Thu 尊厳死議論
_ [日常] 少し前の事ですが。
私も「消えたい」と思って、毎日を過ごしていたことが有りました。何かの事故に巻き込まれたらいいのになぁとか、この立体交差を(車で)まっすぐ行って落ちたら死ぬかな?とか、そんなことばかり考えていました。言葉にしたら「死にたい」と言ったかもしれません。今思えば、自死を選んでいてもおかしくありませんでした。選ばなかったのは偶然です。
でも、ホントは死にたかったわけではないんですね。生きたかった。でも上手く生きられない。そんな中で唯一と思えた解決策が、「死にたい」なんです。
幸いにして、良い医者にも恵まれ、周囲の理解もあって回復することが出来ましたが、今振り返っても、本当に真っ暗な時期でした。
にわかに尊厳死の話題が出始めていますが、非常に危険な要素を含んでいると思います。
ひとつは、「死にたい」原因です。
なぜ死にたいのか。生きているのが辛いのは何故なのか。確かに、誰にもどうにもできないこともあると思います。ただ私のように、本当は死にたくないんだけど、死にたいと思わざるを得ないことも多いと思うのです。ならば社会でそれを支えるべきです。それをせずに、「死にたいと言っているから」尊厳死の方法を考えるというのは、あまりに冷血です。それともこれも自己責任と言うのでしょうか。
もうひとつは、社会的圧力です。
日本の社会は同調圧力が非常に強いことは言うまでもないと思いますが、この同調圧力が、死にたくない人をも死に追い込む可能性を否定できません。つまり、回復の見込みが極めて少ないと言われる難病患者に対し、「安楽死制度が有るのになぜ生きている」と追い込むのです。難病は業病だ、自己責任だ、社会的負担だ、早く尊厳死しろ。国全体がそうなるとは思いたくありませんが、そういうことを言い出す人間は間違いなく出るでしょう。
私は、死ぬ権利は否定するものではありません。ただ、それを語るには、日本社会は人権について、あまりにも未成熟すぎます。
「死ぬことばかり考えていた」ALS患者の医師を絶望から救ったもの
_ [レース] 先日のアンダルシアGPで
表彰台に登ったロッシですが、こんなパフォーマンスをしていました。
Per me è stato (quasi) come avervi lì con me! Grazie del tifo
— Valentino Rossi (@ValeYellow46) July 29, 2020
A virtual hug is better than nothing!
🎥 by @MotoGP pic.twitter.com/lj00vNKwE0
一見「嬉しそうだね〜」と思ってしまうんですが、このレースは無観客…。そう、超満員になるはずだったヘレスの観客席には、誰もいないのです。
そんな中でこんなパフォーマンスができるロッシは流石だなぁ、と思います。素晴らしい!
その、病んだ精神状態で社会全般を語るのはやめた方がいいよ。<br>弱者の視点に立つことは必要であるけれど、あるくくりにおける強者は、ある側面では弱者なのだよ。<br>貴方自身も、他の誰かから見れば、圧倒的強者であったりもするのだよ。<br>弱者と強者という2極で括り、社会はこうあるべきだと刹那的に訴える貴方は、やはり病んでいるよ。<br>そして、そんな被害妄想に憑りつかれたのごとく見える貴方は、あまりに現実社会から乖離していて痛々しい・・・<br>貴方が、一日も早く健やかな精神状態を得ることを願っているよ。
ご助言ありがとうございます。<br>私が求めているモノはシンプルです。基本的人権と、民主主義。そのためのマトモな政治です。<br>もし私が病んでいるとするならば、私のような人間が病まずに済む社会を目指したいですね。